山本賢治さん(マージービート初代ベース) Mods Mayday 86にて
*Mersey beatというバンド名の由来ですが、中戸くんから以前BEATLESの冊子から
みたいな事を聴いた記憶があるのですが、いかがでしょうか?
はい。そうだと思います
プランタン出演は84年ごろでしょうか?
プランタンの定期出演が決まって、稲田くんが抜けたということは、
その後しばらくは活動停止になられたということでしょうか。
また、稲田くんの脱退の理由は?
違った音楽をやりたいとのことでハードコアパンクバンドに加入したはずです
活動停止期間はひどく長く感じました。実際には多分、花石が見つかるまで1-2ヶ月。練習を経てライブ再開まで、3-4か月だったのかな?
また、同年に京都でReady Steady Gigとか、野獣庭園等ライブが行われた時期だったとおもうのですが、Brighton, Modernsと一緒のライブはその2回くらいだと思うのですが、そのときの事とかいかがでしょう。なにか覚えておられることとかありますか?
Mod系バンドとのGIGを始めて経験した時には、随分気持ちが高揚しました。また、観客層がよりコアになっていったことで、後押ししてもらってる感覚にもなりました。
練習はSTUDIO YOUでだったと思うのですが、最初からずっとSTUDIO YOUですか?
また、YOUで練習をされていた理由はなんでしょう?
最初からYOUでした。機材と音が良かった。また中戸の通学沿線で、山本の最寄(吹田ー豊津の中間あたりに住んでた)。
山本さんがボーカルをとられる、Plans Of Runarticsは、元から山本さんが歌われていたんですか? また、山本さんが書かれた曲や詩、主導で作られた教などありますか?
曲はすべて、中戸が作ってました。その弾き語りデモテープもとに、私はベースラインとコーラスを作ってましたが、
私が作ったものを変更されたり、変更リクエストさえ受けたことはありませんでした。「こんな感じでどう?」って意見を聞くことはありましたが、基本全件委任。
東京MODSMAYDAYに関して覚えておられること有りましたら是非お教えください。
あやふやな記憶ですが、林秀樹の運転でキャラバンで全員で行った気が。。 そしてその規模と迫力の違いに興奮しました。
上手く演奏できなかった気がしますが、ステージ側としては本当に気持ちよい雰囲気で演奏させてもらいました。
EPのレコーディングはいつ頃でしたか?(1987年1-2月頃でしたでしょうか?)
EPはそのころです。4月初めには海外放浪に出る事にしていたので、脱退前提でのレコーディングでした。
ホーンの、加入、脱退でなにか変わったことなどありましたか?
音の厚みが出た。珍しがられ、覚えて貰えるようになった。ホーン脱退は残念だったが、そのころには3人でも、十分なパフォーマンスができる自信がついていた。
また、キーボードが加入して変化したことなど有りましたか?
覚えてません。一緒だったのはEPレコーディングだけかも?ライブの記憶があまりないんだけど、、、
EPレコーディングに関して山本さんの立場からの感想などお聞かせいただければ幸いです。
製作タイミングとしては、良かったが辞めるメンバー含めて製作したのはどうだったかなって今は思います。
結成前から、ずっと一緒にやってきたので、中戸がそのサウンドを残そうとしたのか、次のベースでつくるには間に合わなかったかのか?
私個人としては、形に残るものができてありがたかったです。
*大津市民会館でのライブが、一番思い出に残るライブと、以前インタビューで
お伺いしましたが、それ以外のライブで思い出に残っているライブ等ありますか?
思い出に残ってるのは、キャンディーでコレクターズとやった時ですね。圧倒的実力差を感じましたが、それ含めて印象深いです。
大津は会場がかなり大きく、音響やモニターも、粗削りなライブハウスと全く違っており、特にスポットライトは会場一番遠い奥から照らされスター気分を感じたりと
普段と全く違ったライブだったことで印象に残ってます。
SKのLIVE Kids Over Partyで記憶に残っている出来事などありますか?
ライブをいつも盛り上げてくれて、支えられてる気持ちはありましたが、当時は詳細は理解してませんでした。
ホーンの加入はどなたのアイデアですか?
中戸と花石かなって思います
シングル、12インチともに入っていて、代表曲となる A Rebellion to townはいつ頃出来た曲ですか?そのエピソードとかありますか?
わりと初期です。モータウンカバーをたくさんやってましたが、オリジナル曲でも、それっぽいのが欲しいと話してました。ビートが強くなっちゃったけど。
山本さんの思い入れが強い曲はどの曲ですか?
思い入れでは Plans of Lunatics です。 歌詞・メロディーともにすきで、自分で作ったベースライン、コーラスも気に入ってます。
あと好きな曲は タイトル忘れましたが、ホーンが効いたやつで 「遠くの世界でさえ同じさ 変わることなどありゃしない パブに集まる奴らの声が くらい街角 響くのさ」
(この変わらぬ世界です。) 在籍中、解散の危機とか有りましたか?あと、方向性や音楽性の違いで中戸くんと意見が食い違ったこととか有りましたか? 中戸と意見が食い違ったことは一度もありません。 稲田から「山本が辞めるか俺(稲田)が辞めるかだ!」と真剣に言われた事があります。 理由は音楽に取組む姿勢の問題。 バイトや学生生活含め、他のすべて捨てろという勢いでした。 中戸は間に入るわけでもなく、また3人が険悪ムードになるわけでもなく、これまでどおりの3人の関係が続きましたが、その2、3か月後に、稲田が脱退しました。 その際、稲田は私に真剣に謝りました。「今とは違う音楽がしたい。それを山本のせいにして、バンドを辞めろみたいな事を言ってしまった。悪かった恥ずかしい。」 私は気にしてなかったのですが、あまりに真剣に謝られてので(恥ずかしい)というワードまではっきり覚えてます。 中戸と稲田がどういうやりとりがあったかは知りませんが、山本視点ではこんな感じでした。
中戸君は、プロ思考が強く、マージービートでプロを目指していましたが、山本さんは
いかがでしたか?
山本はただただ、上を目指したかった。それは、パフォーマンステクニックであり、観客動員数であり、大ホールでの公演であり。そういう意味で、 ゼロから始め、ずっと成長を感じれたので ずっと楽しかったです。
もしプロがそれ一本で食っていくということを意味するとしたら私はプロ志向ではなかったと思うし、中戸は山本にプロ志向がないことは知ってました。
バンドは中戸くんが主導権を持っていた感じですか? 自分からは、山本さんが在籍されていた時期はそのようには見えなかったのですが。
バンドはメンバーあってのバンドなので、主導権とまではいかないし、中戸もリーダーぶったり指導者的なところもありませんでした。同級生同年代のせいかもしれませんが。
一方で音楽メロディー、歌詞によるメッセージとしては 完全な中戸バンドでした。
もしかしたら大西君以降はそうではなかったかも知れません。
私自身は大西君には年令なのかな、経験なのかな?のギャップを感じてました。
育てなければとかそういう感覚です。
山本さんにとって、マージービート(バンド)とは? (抽象的な質問ですいません。)
自己形成の中でもかなり大きな位置を占めています。勘違い含め、その後の自信とか心の糧というか、バンド活動を通して得たものは計り知れません。(回答も抽象的になりますね)
大西秀男さん マージービート 3代目ドラム
1987年9月大阪歩行者天国ゲリラライブにて。
Q:思い出深いライブは?
東京/渋谷 LIVE INN
Mods Mayday '86
(1986年5月)
僕としてはホーンの3人と演った唯一のライブだったし、1000人近い観客の歓声に終始興奮しながら夢中で演奏しました。
ただただ楽しかったです。
心斎橋 Muse Hall
vs.JUN SKY WALKER(S)
vs.GO-BANG'S
(1987年11月)
後のメジャー人気バンドとの実力の差をまざまざと見せつけられた、思い出深いというかあまり思い出したくない日。
この日は12inchのレコーディング直後で、キラキラしたあの世界観を4人でどうにか再現しようとして硬くなり、最後までマージービートらしい演奏ができなかった。
その困惑は満員の観客にも伝わっていて、会場全体がいたたまれない気持ちだったような気がします。
そしてこの日を境にメンバー間のバンドの進む方向にズレがあるのを何となく感じ始めました。
Q:思い出深い曲は?
“Something New To Change”
イントロからサビ後のコールまで全てがカッコいい初期のナンバー。
加入前に観ていたライブでも一緒に叫んで熱くなっていました。
“Plans Of Lunatic”
こちらも初期の曲で、ミドルテンポながらヘビィな歌詞を爽やかなツインボーカルで聴かせる不思議な疾走感のある曲。
ブレイクのベースのソロボーカル部分もグッと来ます。
どちらも自分が加入前から人気の「これぞマージービート!」て感じの硬派な曲で、ファンとして観ていた時からお気に入りの2曲です。
Q:マージービートはあなたにとってどういうバンドでしたか?
活動停止して30年以上経った今になっても沢山の人の思い出の中で大切にされている共通の体験ですね。
大阪モッズバンドシーンのアイコン的存在マージービート=中戸靖仁です。
Q:プロを目指していたか
バンドの収入で生活出来るようになれば夢のようだと漠然と思った事はありますけど、バンドの性質上インディーでやりたいことを自由に、長く続けていけたらいいのになって思っていました。
Q:時間が経った今だからこそ思うこと
僕が参加していた2年間を振り返ると、自分でも信じられないくらい純粋な音楽的欲求でバンドを続けていたと思います。
あの頃は毎日が興奮状態で、振り返ることも先のことを考えることもせず、バンドと支えてくれる仲間との日々が永遠に続くような気がしていました。
どうしても多少ツライ記憶とセットではあるけど、凄く眩しい思い出です。
田村達也さん(3代目ベース) 12インチレコーディング(1987年10月)
Q:一番思い出に残るライブ
チャオと一緒だったミューズのライブ
今までのライブで一番音がまとまってたと思う
皮肉なことに脱退前のバナナホールもいい演奏ができてたと思う
Q:印象に残った曲 モッズメイデーのリベリオンとキープオンハッピン シャーベッツとホーンが入ってイベント感満載で楽しかった Q:思い出深い曲、製作秘話 ミューズのライブで一曲目に演ったタイトルのない曲。 実はあの曲中戸くんがこんなベースラインで、ってベースラインからできた曲でした。 夜空の向こう側 中戸くんが私の家に泊まりに来た時に出来た曲だったのだ 間奏のコード進行に苦労してましたよ ALL seasons イントロのベースラインはマージーのGRAY TOWNからパクリました 言葉なんていらない 今までにない感じの曲だったので、苦労しましたね。 When I feel blueとは違う感じにしたくてわりと動きのあるラインにしてみました。 この変わらぬ世界 この曲が一番苦労しました あのベースラインを弾きながら歌うなんてドラマも難しいんですよ。 大西も最初は苦労したようです。 リズム隊泣かせの曲です Q:あなたにとってマージービートとは 最初にマージーに出会ったのは高校生の時でした衝撃的でしたね。 こんなバンドがあるんだって。 その後はいちファンとしてライブを観に行ってました。
その時は自分とは程遠い存在でしたね。
kids Over partyを経て大西の加入、カナちゃんの加入。
そんななかまさか自分が加入できるとは思ってもなかったです。
最初は大喜びびで練習に参加していたのですが、山本くんを意識しないことはなかったですね。とりあえず追いつくことに一生懸命で、追い越すという概念がなかったです
今思うとその葛藤はずーっと続きましたね
じつはグランプリになってレコーディングしてる時もそうでした
そんな思いが何故か突然消えたのはレコーディング後のミューズのライブでした。
私がたびたび思い出深いライブで挙げてたのはそれもあったからです。
皮肉なことにその後、半年も経たたなくして脱退することになるとはですね。
いろいろなマージーを見てそして体験しました。
その中で変わらないものは、、、、やはり中戸靖仁なんですね。
出来たら違う形で表現したかったのですが、これ以外にはなかったです。
マージーに関われたことを幸せにおもいますね。
インタビュー by:鈴木博之
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