Mersey Beat Story Vol.2 ドラム花石氏加入
2代目ドラムの花石氏よりマージービート加入~脱退までの経緯やライブのこと、 その他色々なエピソードをお送りいただきました。 花石氏の加入でマージービートは確固としたスタイルを確立し、更にその後ホーンセクションの3名(トランペット・山本達也氏、テナー、アルトサックス・山本克也氏、トロンボーン・故 林秀樹氏)が加わり、ストレートでエッジの効いたサウンドにソウルフルな面が加わり一層の音の厚みが増すことで、第一期の円熟期とも言える時期を迎えます。) 当時のライブ音源もUPしましたので、ぜひお聞きください。 このサウンドの虜になること間違いなしです。
1984年、一浪の後、晴れて京都芸大音楽学部打楽器専修に合格。
その4月だったか5月だったか…大阪北の「大毎地下劇場」で「さらば青春の光」を兄貴(花石恭介)と観に行った時、モッズ連中が結構居合わせ、兄貴の知り合いがいたことから近くの喫茶店で皆でお茶することにした。
二十名近くいたように思うんだけど、その中に「中戸靖仁」も居た。
Mersey Beatというバンドを組んでいるがドラマーが抜けてしまったと。
兄貴が「弟はドラムをやっている。」と皆に紹介したので、中戸が誘ってきた。
しかしその時は京都の方で別のバンドを組む予定だったので断った。
その後7月に入って中戸から電話があり、「未だドラマーが見つからない。ヘルプで
もいいからやってくれないか?」と。京都で始めたバンドはあまり旨くいってなかっ
たので、ひとまずやってみようかとなった。
オリジナル曲を演奏しているカセットテープと歌詞を書き綴ったノートをまず先に受け取って、Mersey Beatとはどんなバンドなのかを知ったと思うが、その格好良さ、センス、言葉の深みなどインパクトは絶大、強烈で、一発で惚れ込んだことは鮮烈に記憶している。
当時の手帳に7月30日 7:30pm~吹田(阪急)とメモしてある。
彼等お気に入りのSTUDIO「YOU」での初めての顔合わせの日。駅の改札口で中戸を待っ
ていると定番のモッズパーカーに肩からベースギターを下げた小柄な奴が、同様にモッズパーカーを着て突っ立っている俺をチラッと見つつ足早に消えていった。
少しして現れた中戸に連れられてスタジオ入りすると、そこには先程の奴が…
山本賢治だった。
彼はギョロ目でニヤッとして「やはりお前だったのか」と改札口での一瞬の事を口にし、すぐに打ち解けた。
毎週「YOU」に通い練習を重ね、11月8日ライブハウス「BAHAMA」が初めてのライブ。楽屋もままならない狭い店で、終演後汗だくのまま店先へ走り出て路上に倒れ込んだのを覚えている。
ちょうどその時、越前屋表太というタレントが通りがかったので、「天誅(テンチュウ)!」「天誅(テンチュウ)!」と彼のギャグを叫びはしゃぎ回っていた。 ライブの盛り上がりと演奏の充実感がそうさせたのだと思う。 マージービートライブ 12月14日 at Cats
マージービートライブ 2月5日 at Bahama
その後も毎週のスタジオ通いは欠かさず「CATS」「EGGPLANT」など毎月ライブ活動を行うようになった。中戸は「EGGPLANT」のPAさんは音作りが凄くいいと気に入ってたなぁ。 Mersey beat Live at Egg Plant Osaka 25th July 1985
俺は当時は京都に住んでいたので「拾得(ジュットク)」「磔磔(タクタク)」でライブが出来たのが目茶苦茶嬉しかった!やっぱり歴史のある格式高いライブハウスだし(酒蔵を改造してるってのもカッコいい!!)。 アメ村三角公園や江坂や神戸三ノ宮の野外でもやった。 京都といえば「アービーエックス」というイベントスペースでMODSFESTIVAL(Ready Steady Gig)なるものをやったり、兄貴が企画して「BIG BANG」というビル全体を使って 「野獣庭園」なる美術作品の展示やフリーマーケット、ボディーペインティングショーそしてモッズバンドのライブと一大イベントに参加した。 あの頃は神戸に「The Brighton」京都に「The Moderns」そして大阪に「Mersey Beat」というのが関西三大モッズバンドと言われていてイベントも共に参加していた。 「野獣庭園」の時からMersey BeatはAlto(Soprano)Sax山本克也、Trumpet山本達也、Trombone故・林秀樹のホーンセクションを加え、スリーピースバンドからサウンド面も大きく飛躍し評判も高まったように思う。 一度、黒門市場の中に、食事をしながらライブが楽しめるレストランがオープンして初日にMersey Beatが入ることになった。 リハーサルも終わりあとは客を待つばかり。しばらくして店長から声が掛かり、いざステージへ!するとテーブルに小学生ぐらいの子供を連れた一組の家族がスパゲティを食べていた。 メンバー皆で微妙な空気に顔を見合わせたが意を決してライブスタート。いつものノリで演奏を進めたが、ステージの方が人数多いし家族でスパゲティすするには曲想合わないし、曲終わりに申し訳なさそうに拍手してくれるに至っては、さすがの中戸もMCで気遣いに対し礼を言うという何とも滑稽なライブとなってしまった。 後にその店が結構すぐにつぶれたと聞かされた時はメンバー全員が恐縮したというエピソードがある。 またホーンセクションの関係筋で、ジャズのビッグバンドのコンサートが滋賀県の大津市民会館であり、ゲストで出演出来ることとなった。 ライブハウスと違ってコンサートホールは何しろデカい!! 広いステージにリハーサル時からテンション上がりまくり!楽屋でもベースの山本のあつらえたスーツの上着が小さすぎて誰一人袖が通らんなどとふざけ合ったり、これまたはしゃぎ回っていた。 ジャズという場違いのコンサートで、伸び伸びとパフォーマンス出来たことは言うまでもない。 1985年6月22日が大阪太融寺「CANDY HALL」での初ライブか?(前出からの日付もそうだが当時のスケジュール帳の書き込みが雑で、もしかしたら間違いが多いかも) 大阪に不慣れな俺は泉の広場でベースの山本と待ち合わせるも、それさえたどり着けるかドキドキであった。「CANDY HALL」はそれまでのライブハウスとは別格だったように思う。 出演回数も自然と増えていったように思うが。ジャンルは違えど「メトロファルス」とも対バン出来たりした。中戸が「やっぱ上手いなぁ…!」と、しきりに感動していたことを思い出す。 ライブに集結したSaturday‘s Kidsの面々が暴れ回って店の椅子を壊しまくってMersey Beatが弁償させられたのも「CANDY HALL」だった。 でもそれが俺らには誇りだった!メンバー全員嬉しくてしょうがなかった。 1986年、俺にとって一浪し親のスネかじってクラシック音楽を勉強する音楽大学に入って、4月からは残り半分の3回生となる。 大学に入り演劇サークルに参加した。 縁あってバンド活動もしてこれた。 何でも好きな事、興味ある事には即、首を突っ込んできた。
ロックが好きだ。バンド活動は魅力的だ。
でもクラシック音楽も奥が深い。
せっかくの大学生活…このままでいいのか? あるスタジオ帰りの時、中戸にその想いの丈をぶつけた。
「今から呑みに行こか」彼が誘ってくれ朝まで二人で呑み明かした。
腹割って様々な想いを話し合い、二人して泣いた。本当に涙流して散々泣いた。
そして俺は大学の勉強に集中する。中戸はMersey Beatに集中すると誓い合った。
それから2月20日が俺のMersey Beatとしてのラストライブとなった。
今もその時の映像を観ると熱い想いが込み上げてくる。
今でも中戸、山本となら最高のギグが出来ると確信している。
By:Manato Hanaishi
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