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THE GEARに間に合わなかった少年のYoung Mods Forgotten Story

更新日:2021年10月19日

THE GEARに間に合わなかった少年のYoung Mods Forgotten Story Text by Ryo Kitaaki(Nude Restaurant) 1991年の夏、2021年の今存続の危機に瀕している神戸元町高架下商店街、通称”モトコー”の中古レコード屋でThe Collectorsの4枚目となるアルバム”PICTURESQUE COLLECTORS’ LAND”のCDを何気なく手に入れたのが全ての始まりだった。


幸か不幸か、父親の影響でビートルズに熱中し、同級生のパンクスだった兄貴が貸してくれるブリティッシュ•インヴェイジョン期のイギリスのバンドのカセットテープにしか興味を持てない中学時代を過ごした自分にとって、MODSカルチャーとの出会いは衝撃だった。

丁度その頃刊行されたパオロ•ヒュイット著のThe Jamの伝記本を手に理髪店に飛び込み、モッズに一歩近づいたといい気になった自分は、とりあえずコレクターズの関西圏のライブに足を運ぶ日々を過ごしていた。


周りに分かり合える友人も居ず、数少ない手掛かりである「さらば青春の光」や「The Kids Are Alright」、「ロック映像年鑑」…のダビングテープを擦り切れる程観るだけの悶々とした毎日を送る中で、ふと思い出したのが既出の同級生の家の勝手口に停まっていたシシーバーのついたベスパET3の持ち主のことだった。


その人こそが、自分達世代のフェイスバンド”Grass Grow”のヴォーカルで、シーンのエースだった中平君。

偶然にも地元が同じで、自分の小学校の同級生の兄貴だった彼の存在を思い出し、居ても立っても居られずに小学校の卒業アルバムを引っ張り出して自宅に電話した。

弟の元同級生で見ず知らずの者からの連絡に、最初は訝しげに応対してくれた中平君に、「モッズになりたいんです」と素っ頓狂なお願いをした自分…。 話すにつれて「神戸にモッズの後輩なんか居らんから嬉しいわ、いっぺん家に遊びにおいでや」と言葉を掛けてくれた中平君に甘えて、度々お邪魔させてもらった。

家の前に停められていた、旧車のベスパとランブレッタ(残念ながら車種は覚えていない)に興奮、彼の部屋は服とレコードとギターしかない、自分が思い描いていたリアルなモッズの部屋そのものだった。

リチャード•バーンズの「Mods!」の和訳のコピーや、当時ロッド•スチュワートすらまともに知らなかった自分にSteampacketやShotgun Expressのレコードを貸してくれたことを鮮明に覚えている。



そうこうしているうちに、中平君から大阪モッズシーンの存在を聞き、「今度心斎橋のサンホールって所でモッズのパーティーがあるから一緒に行こう」と誘ってくれたのだ。

夢にまで見た、実在するモッズが屯する空間にいよいよ参加するんだ!と、武者震いと不安の交錯する1ヶ月を過ごしたが、一向に中平君から連絡が無い…。

「もしかして嫌われたのでは…?」と葛藤しながらも恐々彼に電話すると、「どうしたん?来週…?あ、あぁ〜、そうやったっけ。ごめん、俺行かれへんねん。でも、行ったら絶対面白いから行ってみたら」と。

「あぁ、そうですか…分かりました」と空元気で答えたものの気持ちは、「これで終わった…」の一言。

待ち望んだ煌びやかなモッズライフが幕を開けると夢想していた自分には余りにもハードで無残な状況が訪れた為半ば諦めかけたのだが、「ここで行かないと何も始まらない」と思い立ち、翌週末学校をサボって恐る恐る心斎橋へ向かった。



初めて訪れたモッズショップ”Jelly Bean”で前売りを買い向かったサンホールの前で声を掛けてくれたのは、既出の”Grass Grow”でベーシストを務めたブライアンさんだった。

「この前、京都ミューズホール(コレクターズのライブだった)前でスクーターランのフライヤー渡した子やんな?」と、不肖な自分を覚えてくれていたことに感激。 当時のフェイスであり、京都のミヤコスクーターズのメンバーとして活動をされていたブライアンさんに、この日を迎えた諸々のお話しをさせてもらい中平君が来れない旨を伝えた時、「あ、来たで」とブライアンさんが指差した所を振り返った視線の先には中平君の姿が…! Yeah,Yeah!と陽気に現れた中平君。自分に気がつくと「オォ、キタアキ君来たんや!Year!」と、人懐っこい笑顔で一言残し、稀代のお祭り男を迎えるハードコアな面々が待つ輪の中へ消えて行く彼の背中を見つめながら『緊張で寝れなかった俺の一昼夜を返してくれませんか…』と思いながらも、彼の登場でとてつもない勇気をもらえた。



唐突だがここで改めてご紹介させてもらうと、”Grass Grow”とは、皆さん周知の大阪モッズシーンの誇るレジェンダリーR&Bバンド”The Gear”のギタリストであった吉山さんが擁し、中平君がリードヴォーカル、ブライアンさんがベーシスト、ケンさんがドラムスを担当した、90年代中期〜の大阪モッズシーンを代表する、自分達世代にとって紛れもなく唯一無二のバンドである。

グラス グロウのライブは、どんな時だって我々ガキモッズ達を熱狂の坩堝へと連れて行ってくれ、得もいえない夢見心地にしてくれた。


話は戻ってその時、初めて体験した大阪モッズシーンのイベントのメインゲストは、青山さんがベースを担当していたスリーピースのThe Fave Ravesだったと記憶している。

なにより自分が思い焦がれた大阪モッズシーンの、当時赤子同然の自分にとっては想像を遥かに超えた空気感に圧倒され、ステージ上のバンドの方々は勿論、フロアで佇む妖しげなモッズの先輩や煌びやかなモデットの皆さんの姿を、只々畏敬の念を込めて隅っこから眺める事しか出来なかった。


当時のフェイスだったとある先輩に「好きな音楽は?」と聞かれて、「コ、コレクターズです…」と答えた時の、”ハッ”という嘲笑の込もったような乾き切った返答は未だに脳裏に焼き付いている。

こちらの以前の記事中にある、ツクダさんが東京モッズシーンで経験された「ここなら空いてるゼ(笑)座れよ」の言葉と、自分的には同レベルと感じる洗礼を受けて背筋が縮み上がった記憶がある。



この鮮烈な体験の2年後の1994年に、自分がクルーを務めるダンスイベント”Nude Restaurant”をスタートさせることとなる。


今思うと、この夜の出来事や思いの全ても、ヌードレストランの原点のひとつなのだと思う。



故あって数年間大阪モッズシーンに足を運んでいなかった自分を再びシーンへといざなってくれたのは、四半世紀強に渡ってヌードレストランの相棒であるサワモト イズミだった。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いで、大阪モッズシーンで頭角を表していた彼と出会い、関西ローカルの1イベントに過ぎなかったヌードレストランは新たなステージへと船出することとなる。


話を戻して大阪モッズシーン、モッズメーデーについて記していこう。

世代を越えてシーンの先輩方に交じりThe Gearを体験していた遠藤君が、大阪モッズメーデーを復活させたのは1996年のこと。場所は今は無き難波ロケッツだった。

当時The Gearを求めて地元を飛び出して大阪に移住したという筋金入りの大阪モッズである遠藤君は、自分と同世代ではあるが、自分がシーンの門を叩いた時にはすでに貫禄十分のフェイスの1人で、その頃一方的に大きな影響を受けた先輩だ。



自分にとって人生初となった96年のモッズメーデーは、その頃シーンで遊んでいた皆にとっても勿論初めて体験するモッズメーデーであり、普段のイベントとは違う高揚感と刺激を受けた事を覚えている。


その高揚感のせいなのか、その時生まれて初めてオーダーしたスーツのジャケットとシャツを脱ぎ捨てて、上半身裸でGrass Growのステージに上がり、どえらい顰蹙を買ったのは穴があったら入りたいような苦い記憶だが、今となっては甘酸っぱい(少しばかり酸味は強いが)思い出のひとつとなっている。


諸事情により遠藤君が翌年以降は開催しないという噂が流れた為、その頃大阪で若手バンドとして人気を博していたRaw Blues Quartetのオグラ マナブ氏とヌードレストランのサワモト イズミで、97年の大阪モッズメーデーを企画運営することになった。



我々世代による初めての大阪モッズメーデーを強く意識して、会場を前年のロケッツから変更することにした。

当時、関西で発行されていたストリートファッション誌Cazi Caziのクラブスケジュールでクラブをチェックし、キャパシティや雰囲気、スクーターを停める場所等を考慮しながらミーティングを重ねた主催の両名が選んだのは、大阪南港にあったBayside Jennyだった。

当時若手海外ミュージシャンの日本初ライブにもよく使われた、OasisやGreen Dayもライブを行うキャパシティ1000人の大箱だったBayside Jennyだったが、意外にも担当者がモッズに興味を持ち話はすんなりとまとまった。


97年大阪モッズメーデーの出演者は、バンド陣は我らが金字塔であるGrass Grow、大阪ガレージシーンが誇るMoney Spiders、シーン初登場のガールグループBunnies、そしてホストバンドのRaw Blues Quartet、DJは当時のヌードレストランのメンバーのキタアキ、イズミ、アキバと、前年度の主催者である遠藤君、同じく先輩モッズの村上さんだった。



白黒コピーを切り貼りしてのフライヤー制作が当たり前だったあの頃としては画期的だったカラー印刷のフライヤーには、直球ど真ん中のターゲットマークがあしらわれた。

印刷屋も今ほどニーズに対応出来ておらず、当時の最小ロットの一万枚を刷ったフライヤーは、イズミ達がメーデー前にアメ村のあちこちにのりで張り付け、翌日には剥がされを繰り返しながら告知。

自分も、その頃勤めていた突撃洋服店を始め神戸地区で意気揚々と宣伝活動に励んだ。

携わった誰もがそれまでに経験したことが無い桁違いの規模のイベントだったが、若さ故の勢いと情熱がフルに功を奏し、初めてのメーデーは大成功を収めた。

しかしながら、それ以前にシーンで遊んでいた先輩方の姿は少なくこのメーデーを境に世代交代が進んだことも事実だろう。


Bayside Jennyのモッズメーデーでは、バンドとDJを同等に扱うことにこだわった。 お気に入りのバンドのライブ前に最前列を陣取るオーディエンスと、お目当てのDJのタイムテーブルに合わせてブース前のダンススペースを確保するオーディエンスが、入れ替わり立ち替わりに交錯する光景は、自分の気持ちを大きく奮い立たせてくれた。 その結果、97年のメーデーはDJタイムも大いに盛り上がり5時の閉演時間を過ぎてもフロアの熱が冷めることがなく、朝の7時頃まで盛り上がり続けた。 手前味噌ではあるが、最後の一曲までステップを踏み続けた多くのクラウド達は、日頃からヌードレストランで鍛えられていた面々だった。 今でも大阪のメーデーはどこのメーデーよりも踊ると評されることが多々あるが、我々ヌードレストランがスタート当初からダンスにこだわっていたことと、後にヌードレストランが持ち込んだノーザンソウルに拠るところが大きいと自負している。 こうして新たにスタートを切った大阪モッズメーデーが大盛況に幕を下ろし、シーンのど真ん中で躍動していたモッズ達が大阪や神戸の街でそれぞれに主催していたクラブイベントも、小規模ながら全盛期には毎週末のように何処かのクラブで開催され、当時の古着ブームの影響もあり、大阪モッズシーンは盛り上がりを見せた。





その頃のクラブのフロアはというと、東京を筆頭に全国のモッズシーンがオリジナルモッズが好んだ初期R&B等により強くこだわっていた当時の風潮に背を向けるように、自分達は大阪モッズシーンオリジナルのトレンドだったファンキーソウルに熱狂し、我々ヌードレストランがシーンに持ち込んだノーザンソウルで朝まで踊り明かしていた。 当時東京モッズシーンを始め強い影響力を誇ったダンスイベントであるWhisky A Go Goを主催するDJチームBlues Dressに呼応するように、全国のモッズシーンが彼らの提唱するモッズ観に惹きつけられていく中、頑として一線を画しながら存在し続けた当時の大阪モッズシーンの姿は、Saturday’s Kidsの諸先輩方の心意気と共通する部分があると思うのは、思い上がりが過ぎるだろうか。





その後大阪モッズメーデーは数年間に渡り、バラエティ豊かなゲストを迎えながら毎回趣向を凝らし開催、その好評ぶりに背中を押されるようにモッズメーデーの秋版とも言える、BE BORN AS THE MODS BLINDやMODS GENESIS…といった派生イベントも同会場にて開催された。



ベイサイドジェニーのバカでかいフロアを埋め尽くすモッズやモデット、60’sファッションに身を包むオーディエンスを前に、熱気溢れるパフォーマンスを繰り広げてくれたバンドには、例を挙げるとThe Spindles、Les Cappuccino、The Neat beats、Easy Rollin’、The Leads…といった地元関西で活躍する面々に加え、杉村 ルイ氏、Back Door Men、Phelge…という東京モッズシーンを代表するキャスト、The Tweeners(名古屋)やThe Close(広島)、Pico(岡山)やThe Trousers(金沢)…といった他地域のモッズシーンを引っ張るバンドの姿があった。



60年代のオリジナルモッズのように限りなくティーンエイジャーに近かった当時ハタチ前後の自分達は、多様性とバラエティに富んだ大阪モッズ独特のスタイルを追い求め、目をキラキラと輝かせながら、ヒリヒリするような日々を過ごしていたように思う。 当時の大阪モッズシーンのクラブヒットだったWillie Parkerの”I Live The Life I Love”で踊り狂いながら、凄まじいスピードで目まぐるしく移り変わっていくシーンを、文字通り”俺は自分の好きな人生を生きる”とばかりに目一杯謳歌していた。



今回このような機会を頂き、かつての日々を思い起こすよう努めてみたのだか、当時も終始アルコールと共にあった自業自得もあり、出てくる記憶と言えば悪ノリが過ぎた、しかしながら愛しくて仕方がない、ここでは書けないようなエピソードばかり…。 自分達が作った場所に、最高の音楽と、最高の仲間達、最高の瞬間が常に在ることが当たり前で、そこから更に生まれる刹那を求め続けた、なんとも愉快で幸せな時間だった証なんだろうと思う。 2000年にベイサイドジェニーでの大阪モッズメーデーは終わりを告げ、メーデーは次世代に引き継がれたものの、京都で開催される等大阪モッズらしさを失った空白の10年を経て、2011年よりヌードレストランのレギュラークラウドであり直の後輩のチクサ君が引き継ぎ、現在の大阪モッズメーデーを主催し、大阪らしさを取り戻したコアで柔軟な新しい大阪モッズシーンを作っている。 未だ見ぬ未来の大阪モッズ達を迎え、あの熱気で再びフロアが満ち溢れる日を願いながら、自分も大阪モッズシーンをこれからも楽しんでいきたいと思っている。 Text by Ryo Kitaaki(Nude Restaurant)

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