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フォーラム記事
suzukigarden
2021年5月30日
In The Story of Mersey Beat
〇1983年大阪で結成されたモッズバンド。結成当初は3人。(1)
〇初代ドラマー脱退、1984年8月より2代目ドラマー加入。(2)
その後、ホーンセクション加入(3)
〇2代目ドラマー脱退、3代目ドラマー加入(4)1986年3月(4)
〇Tokyo Mods Mayday 1986年5月参加
〇ホーンセクション脱退
〇キーボード加入(5)
〇1987年5月にEP『Mersey Beat』をリリース。
〇1987年5月に初代ベース脱退、2代目ベース加入(6)
〇1987年6月19、20日に新宿JAMにて2DAYSライブ。
6月19日:Mersey Beat, The Red Curtain, The Strikes, The Wow Wow Hippies, The Phantom GIft
6月20日:Mersey Beat, The Collectors
〇1987年8月に姫路フォーラス・サウンド・コンテスト・グランドチャンピオン大会優勝。 副賞で12インチEP『Silent Reaction』発表。
〇1987年12月、2代目ベース、3代目ドラム脱退。
〇1988年1月、初代ドラム復帰、3代目ベース加入、(7) 女性ボーカル加入。
〇1988年秋新メンバーで新宿JAMにてライブ
〇1990年~91年、活動停止。 第二期マージービート
中戸靖仁(G./Vo.) /山本ケンジ(B./Cho.) / 花石真人(Dr.)
第三期マージービート
中戸靖仁(G./Vo.) / 山本ケンジ(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
第四紀マージービート
中戸靖仁(G./Vo.) / 田村達也(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
第五期マージービート
中戸靖仁(G./Vo.)/ 桑野栄子(Vo.) /伊藤博志(B.) / 稲田隆(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
☆メンバー変遷
(1)中戸靖仁(G./Vo.) 山本ケンジ(B./Cho.) / 稲田隆(Dr.)
(2)中戸靖仁(G./Vo.) /山本ケンジ(B./Cho.) / 花石真人(Dr.)
(3)中戸靖仁(G./Vo.) /山本ケンジ(B./Cho.) /花石真人(Dr.) /
ヒデキ ハヤシ(Trombone)、タツヤ ヤマモト(Trumpet) カツヤ ヤマモト(Sax)
(4)中戸靖仁(G./Vo.) / 山本ケンジ(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/
ヒデキ ハヤシ(Trombone)、タツヤ ヤマモト(Trumpet) カツヤ ヤマモト(Sax)
(5)中戸靖仁(G./Vo.) / 山本ケンジ(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
(6)中戸靖仁(G./Vo.)/ 田村達也(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
(7)中戸靖仁(G./Vo.)/ 桑野栄子(Vo.) /伊藤博志(B.) / 稲田隆(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
☆Discography 1987年3月 LP Dance! Approved Streets に収録
Recording Live at Egg Plant Osaka 1987年3月9日 <LP/Radiate Records/GO GO-1>
A: Keep On Harpin
B: It's A Fridai Night
参加アーティスト:
(THE HAIR/THE COLLECTORS/PAGE THREE/ THE STANDARDS/ HIGH STYLE/MERSEY BEAT)
1987年5月 Mersey Beat <7inchEP/Con-Trust/S-001>
AA1. A Rebellion To Town
AA2. Please Open Your Eyes
A1. Keep On Harpin'
演奏:
中戸靖仁(G./Vo.) / 山本ケンジ(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth) Chorus: Sharbets キョウコ、ノリコ、他1名
1988年9月 Silent Reaction <12inchEP/FORUS RECORDS/PRC-30576>
A1. All Seasons A2. 夜空の向こう側に
B1. When I Feel Blue B2. A Rebellion To Town
演奏:
中戸靖仁(G./Vo.) / 田村達也(B./Cho.) / 大西秀男(Dr.)/ 金田安紀子(Keyboard, Piano, Hammond, Synth)
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suzukigarden
2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
The Birth of Mersey Beat
マージービートの誕生
マージービート歌詞ノート表紙。 時代を反映したかわいいノートです。
マージービート誕生は1978年に遡ります。 中学3年生のときに、のちのマージービートの初代Bassとなる山本くんが転校してきたところ物語は始まります。 転校してきた山本くんは、その中学にいた中戸くんと友人になります。お互い音楽好きということで意気投合しました。当時は、アリス、松山千春、Kiss Deep Purpleなどの影響で、楽器演奏を始める男子が沢山いました。 2人は一緒に楽器店に通い、山本くんはエレキギター、中戸くんはバイオリンベースを購入し、せっかく楽器を買ったんだから、文化祭に出ようということになり、中学の文化祭で、ビートルズの曲を演奏しました。演奏曲目は、Hey Jude, Can’t Buy me Love, Helpなどでした。 選曲はビートルズ好きの中戸くんのチョイスで、バンド名は山本くん目名で、ストリームという名前でした。 ビートルズ好きの中戸くんから、当時の逸話を聴いたことがあるのですが、他のたくさんのビートルズファン、洋楽ファンにも覚えがあると思いますが、彼はビートルズの曲を聞いて、一生懸命カタカナで歌詞を書いて覚えたとのことです。その後実際の英語の意味、歌詞がわかるように成って、間違いだらけで覚えていて、思わず苦笑いしたという、又これも皆経験のあるエピソードですね。 その後、両名は各々別の高校に進学します。
高校3年生の時に、大学受験の後中戸くんが山本君にバンドをしないかと誘いました。 その際に初代稲田くん(初代ドラム)を紹介されました。 稲田くんも同じ中学だったそうですが、その時会ったのが初めてで、すぐに友人に成ったそうです。3人は同じ中学、中戸くんと稲田くんは同じ高校、中戸くんと山本くんはその後同じ大学、という関係になりました。 バンド名マージービートは、ビートルズ好きの中戸くんがビーツルズファン向けの会報の中に書かれていた、”Mersey Beat”という言葉を見つけ、「バンド名はこれにしよう」ということで決めたそうです。
結成当初は、The Jam, Clash, Motownの曲のカバーを練習していました。 これは3人共、Jam、Clashに影響を受けたためです。 程なくオリジナル曲を作りはじめました。 作曲方法は、中戸くんのギターの弾き語りテープを3人で聞きながら編曲してゆくスタイルでした。 記念すべき第一曲目は、”Under Ground” 2曲目は”Plans of lunatics”でした。 代表曲の1曲、”Plans of Lunatics”が2曲目に生まれた曲というのは驚きですね。
初ライブは、BAHAMA(@アメリカ村)で、対バン相手もいました。(どのバンドかは失念されたそうです。)その後、デモテープを色々なライブハウスに持ち込み、天王寺の「不思議の国のアリス」や、その他ライブハウスで演奏する機会も増えました。 そして、心斎橋のプランタンのオーディションを勝ち取り、定期継続出演が決まりました。 プランタンはファッション商業ビルで、ライブ会場は館内全体に映像放映できるテレビカメラを備えた、当時では珍しい観客スタジオでした。録画が館内で流れたりしたので、ちょっとした有名人気分も感じられたとのことです。
ところが、喜びもつかの間となる事態が襲います。 違うジャンルの音楽がやりたいということで、ドラムの稲田くんが脱退します。
せっかくプランタンでの定期演奏が決まったにもかかわらず、ドラムの脱退でマージービートはふりだしに戻り、2代目ドラムの花石くんが加入するまで、足踏みの状態となります。
実際には1-2ヶ月程度だったそうですが、ひどく長く感じられたとのことです。その後練習を経て、ライブ再会までには3-4ヶ月かかったとのことでした。 こぼれ話:中戸君に以前聴いたことがあるのですが、最初のステージではCLASHのカバー を演奏し、ステージ衣装もCLASHと同じ雰囲気のものだったそうです。 後のマージービートのスタイルからは想像できませんが、もしそのままだったらPUNKバンドに成っていたかもしれませんね。 この続きお楽しみに。 By:鈴木博之 初代ベース山本さんにご協力いただき、質問をお送りして、鈴木がまとめました。
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
Mersey Beat Story Vol.2ドラム花石氏加入 2代目ドラムの花石氏よりマージービート加入~脱退までの経緯やライブのこと、その他色々なエピソードをお送りいただきました。花石氏の加入でマージービートは確固としたスタイルを確立し、更にその後ホーンセクションの3名(トランペット・山本達也氏、テナー、アルトサックス・山本克也氏、トロンボーン・故 林秀樹氏)が加わり、ストレートでエッジの効いたサウンドにソウルフルな面が加わり一層の音の厚みが増すことで、第一期の円熟期とも言える時期を迎えます。)当時のライブ音源もUPしましたので、ぜひお聞きください。このサウンドの虜になること間違いなしです。
1984年、一浪の後、晴れて京都芸大音楽学部打楽器専修に合格。 その4月だったか5月だったか…大阪北の「大毎地下劇場」で「さらば青春の光」を兄貴(花石恭介)と観に行った時、モッズ連中が結構居合わせ、兄貴の知り合いがいたことから近くの喫茶店で皆でお茶することにした。
二十名近くいたように思うんだけど、その中に「中戸靖仁」も居た。 Mersey Beatというバンドを組んでいるがドラマーが抜けてしまったと。 兄貴が「弟はドラムをやっている。」と皆に紹介したので、中戸が誘ってきた。 しかしその時は京都の方で別のバンドを組む予定だったので断った。
その後7月に入って中戸から電話があり、「未だドラマーが見つからない。ヘルプでもいいからやってくれないか?」と。京都で始めたバンドはあまり旨くいってなかったので、ひとまずやってみようかとなった。
オリジナル曲を演奏しているカセットテープと歌詞を書き綴ったノートをまず先に受け取って、Mersey Beatとはどんなバンドなのかを知ったと思うが、その格好良さ、センス、言葉の深みなどインパクトは絶大、強烈で、一発で惚れ込んだことは鮮烈に記憶している。 当時の手帳に7月30日 7:30pm~吹田(阪急)とメモしてある。
彼等お気に入りのSTUDIO「YOU」での初めての顔合わせの日。駅の改札口で中戸を待っ ていると定番のモッズパーカーに肩からベースギターを下げた小柄な奴が、同様にモッズパーカーを着て突っ立っている俺をチラッと見つつ足早に消えていった。 少しして現れた中戸に連れられてスタジオ入りすると、そこには先程の奴が… 山本賢治だった。
彼はギョロ目でニヤッとして「やはりお前だったのか」と改札口での一瞬の事を口にし、すぐに打ち解けた。
毎週「YOU」に通い練習を重ね、11月8日ライブハウス「BAHAMA」が初めてのライブ。楽屋もままならない狭い店で、終演後汗だくのまま店先へ走り出て路上に倒れ込んだのを覚えている。
ちょうどその時、越前屋表太というタレントが通りがかったので、「天誅(テンチュウ)!」「天誅(テンチュウ)!」と彼のギャグを叫びはしゃぎ回っていた。 ライブの盛り上がりと演奏の充実感がそうさせたのだと思う。
マージービートライブ 12月14日 at Cat マージービートライブ 2月5日 at Bahama その後も毎週のスタジオ通いは欠かさず「CATS」「EGGPLANT」など毎月ライブ活動を行うようになった。中戸は「EGGPLANT」のPAさんは音作りが凄くいいと気に入ってたなぁ。
Mersey beat Live at Egg Plant Osaka 25th July 1985 俺は当時は京都に住んでいたので「拾得(ジュットク)」「磔磔(タクタク)」でライブが出来たのが目茶苦茶嬉しかった!やっぱり歴史のある格式高いライブハウスだし(酒蔵を改造してるってのもカッコいい!!)。
アメ村三角公園や江坂や神戸三ノ宮の野外でもやった。 京都といえば「アービーエックス」というイベントスペースでMODSFESTIVAL(Ready Steady Gig)なるものをやったり、兄貴が企画して「BIG BANG」というビル全体を使って「野獣庭園」なる美術作品の展示やフリーマーケット、ボディーペインティングショーそしてモッズバンドのライブと一大イベントに参加した。
あの頃は神戸に「The Brighton」京都に「The Moderns」そして大阪に「Mersey Beat」というのが関西三大モッズバンドと言われていてイベントも共に参加していた。 「野獣庭園」の時からMersey BeatはAlto(Soprano)Sax山本克也、Trumpet山本達也、Trombone故・林秀樹のホーンセクションを加え、スリーピースバンドからサウンド面も大きく飛躍し評判も高まったように思う。
一度、黒門市場の中に、食事をしながらライブが楽しめるレストランがオープンして初日にMersey Beatが入ることになった。リハーサルも終わりあとは客を待つばかり。しばらくして店長から声が掛かり、いざステージへ!するとテーブルに小学生ぐらいの子供を連れた一組の家族がスパゲティを食べていた。 メンバー皆で微妙な空気に顔を見合わせたが意を決してライブスタート。
いつものノリで演奏を進めたが、ステージの方が人数多いし家族でスパゲティすするには曲想合わないし、曲終わりに申し訳なさそうに拍手してくれるに至っては、さすがの中戸もMCで気遣いに対し礼を言うという何とも滑稽なライブとなってしまった。後にその店が結構すぐにつぶれたと聞かされた時はメンバー全員が恐縮したというエピソードがある。
またホーンセクションの関係筋で、ジャズのビッグバンドのコンサートが滋賀県の大津市民会館であり、ゲストで出演出来ることとなった。ライブハウスと違ってコンサートホールは何しろデカい!! 広いステージにリハーサル時からテンション上がりまくり!楽屋でもベースの山本のあつらえたスーツの上着が小さすぎて誰一人袖が通らんなどとふざけ合ったり、これまたはしゃぎ回っていた。 ジャズという場違いのコンサートで、伸び伸びとパフォーマンス出来たことは言うまでもない。
1985年6月22日が大阪太融寺「CANDY HALL」での初ライブか?(前出からの日付もそうだが当時のスケジュール帳の書き込みが雑で、もしかしたら間違いが多いかも)大阪に不慣れな俺は泉の広場でベースの山本と待ち合わせるも、それさえたどり着けるかドキドキであった。「CANDY HALL」はそれまでのライブハウスとは別格だったように思う。
出演回数も自然と増えていったように思うが。ジャンルは違えど「メトロファルス」とも対バン出来たりした。中戸が「やっぱ上手いなぁ…!」と、しきりに感動していたことを思い出す。
ライブに集結したSaturday‘s Kidsの面々が暴れ回って店の椅子を壊しまくってMersey Beatが弁償させられたのも「CANDY HALL」だった。 でもそれが俺らには誇りだった!メンバー全員嬉しくてしょうがなかった。
1986年、俺にとって一浪し親のスネかじってクラシック音楽を勉強する音楽大学に入って、4月からは残り半分の3回生となる。
大学に入り演劇サークルに参加した。
縁あってバンド活動もしてこれた。
何でも好きな事、興味ある事には即、首を突っ込んできた。 ロックが好きだ。バンド活動は魅力的だ。 でもクラシック音楽も奥が深い。 せっかくの大学生活…このままでいいのか? あるスタジオ帰りの時、中戸にその想いの丈をぶつけた。 「今から呑みに行こか」彼が誘ってくれ朝まで二人で呑み明かした。 腹割って様々な想いを話し合い、二人して泣いた。本当に涙流して散々泣いた。 そして俺は大学の勉強に集中する。中戸はMersey Beatに集中すると誓い合った。 それから2月20日が俺のMersey Beatとしてのラストライブとなった。 今もその時の映像を観ると熱い想いが込み上げてくる。 今でも中戸、山本となら最高のギグが出来ると確信している。
By:Manato Hanaishi
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
Mersey Beat Story Vol.3
Joining of Onishi, Withdrawl of Brass Section, Mr. Todaka and joining of Kanachan,
大西くん(Dr)加入、ブラスの御三方脱退、戸高氏参画、カナちゃん(KEY)加入
本稿は、大西くんや当時の関係者に聞き取り、確認をして鈴木がまとめました。
もし勘違い、間違いがあればご指摘いただければ幸いです
せっかくバンドとしてのスタイルを確立し、ホーンも加わり、さらなる高みを目指すマージービートでしたが、花石氏が、学業に専念する事で脱退することとなりました。
しかしながら、不幸中の幸いというか、突然の脱退ではなかったので、次のドラムを探す時間が少しありました。そこで白羽の矢が当たったのは大西君でした。
大西君はアレキサンダーのボーカル、ギターで、Saturday’skidsのメンバでもありました。その頃マージービートのライブにもよく顔をだしていました。
当時の大西君は、音楽的にはSMALLFACESなどMOD系の音楽は好きでも、ファッションにはそこまで興味はなかったそうですが、高校のクラスメイトの吉山くん (アレキサンダー/TheGEAR)の影響で徐々にその世界観に夢中になっていったそうです。
一度飲み会かなんかで、彼は「掛け持ちしてるバンドではドラムを叩いてる」と話していたようで、その話を聞きつけた鈴木が、中戸君に「大西ドラムもできるらしいで。大西を誘えば?」と言ったようなことらしいです。実際そのへんの記憶はあやふやなんですが。(笑)
KidsOverPartyVol.1の後、皆でオールナイト上映の「さらば青春の光」を見に行った際、中戸君に「大西、ドラムできるんやろ、入れよ!」みたいな感じでいきなり誘われたそうです。花石君がマージービート加入した時も「さらば青春の光」を見に行った際に、中戸くんに誘われた経緯があり、偶然とはいえ、なにかMODの定めとでもいいましょうか、まさに、”事実は小説よりも奇なり”ですね。
本人曰く、とてもNO!と言える雰囲気ではなく、また憧れのオーディエンスとして見ていたバンドに誘われたということもあり、その時はあまり考えずに二つ返事で引き受けたそうです。
ところが、花石君の脱退ライブで、アンコールの際にMCで花石君が、「次のドラムはパワーのあるやつなんでよろしく」と言われ、その時になって初めて自分の担う役割の重大さに気づいたとのことでした。
そのライブ(1986年2月のCandyHall)は、それまでのマージービートのライブでは、最高と言えるほどの盛り上がりで、神々しいほどのオーラーを放つ花石さんに大西くんはすっかり当てられてしまったそうです。
マージービートのイチファンだった自分が、今後は結成当時から応援しているようなファンに演奏を聴かせるなんて、はたして花石さんの代わりが自分に務まるのだろうか?とプレッシャーはかなりきつかったということでした。それからマージービートのホームともいえるスタジオYOUに週2で通うようになりました。すでに脱退した花石君とは練習を一緒にすることはなかったようで、以前のスタジオ練習の録音やデモテープを聞いてトレースする日々だったそうです。中戸君、山本君も演奏に関して細かく口出しすることもなく、とても優しかったそうです。
練習後 Studio Youの前でくつろぎおどける3人。
その後加入後2ヶ月しか練習期間がないにもかかわらず、5月11日はKid’s Over Party Vol.2、(Candy Hall)、5月18日は東京ModsMayday86と、いきなりライブが立て続けでした。
Kids Over Party Vol.2 Mersey Beat Live
Mods Mayday Tokyo 1986 Mersey Beat
とにかく時間がないので「習うより慣れろ」という感じでもあったようで、どんどん経験を積み重ねてマージービートの3代目ドラムにいつの間にか成っていたとのことです。
ただ、本人曰く、その頃は、ただ次のライブに向けて練習して本番に臨むだけで一杯一杯という状態だったと言う事でした。
東京Mods Mayday 86参加時、大西くんは実はまだ自前のスネアもキックペダルも持っておらず、あろうことかスティックだけ持って会場のLIVE INNに行ったところ、当てにしていた会場の据え付けドラムのスネアのヘッドがリハーサル時にやぶれてしまいました。困った彼は恥を忍んで他のバンドの親切なドラマーにスネアを借りたそうです。ちなみにそのスネアは The Standardsからの借り物で、東京Mods Mayday 86の録音でも聞けるとおり、珍しくかなり高めに張った音だったのはそのためだったようです。
ちなみに、彼はマージービートでは最年少(と言っても、中戸君の4歳下)だったので、メンバーに可愛がってもらったそうです。山本くんは彼の加入時には、どのように教育してゆくか?と考えていたようです。特に中戸君とは練習以外でもしょっちゅう会っては、食事をしたり遊んだりして親交を深めていきました。
そんなこんなでメーデー前のスタジオではしっかりタメ口になるほど打ち解けてしっかり主要メンバーに成っていました。
順調にライブを重ねたマージービートですが、ホーンの3人(山本達也さん、山本克也さん、故林秀樹さん)がメーデー以降脱退し、以前のスリーピースに戻ります。
山本くんは、残念ではあったものの、3人でやって行けるだけの力もついていたので不安ではなかったと語っておられます。
その後は以前よりはライブをセーブし曲作りを精力的に行いました。それでも、Kids Over Party. Vol.3,(1986年8月) に出演、コレクターズとも親交を深めました。
その後、マージービートにマネージャーとして戸高君が参加します。
戸高君はそれまでSaturday’s Kidsのメンバーの中心的な存在でとしてKids Over Partyの企画、運営を行ってきましたが、ライブパーティー慢性的な赤字や入場者数の伸び悩み、などの問題で頭を抱えていました。 おそらく彼はライブパーティーの企画、運営をするよりも、バンドを育てる事に可能性を感じたと思われます。そして、中戸くんと一緒に飲みに行って、戸高くんがマージービートのマネージャーになるということで話がまとまったということだったと思います。(記憶があやふやですいません。)
おそらく彼は、ビートルズにおけるブライアン・エプスタイン的なポジションを目指したのではないかと思います。
自分は当時Saturday’s Kidsのライブやその他の運営、その他買い物や飲みで戸高くんとつるむことも多かったのですが、その際に、ホーンが抜けたマージービートの今後みたいな話をしたような記憶があります。そして、キーボードに当時CHAAOでキーボードだったカナちゃんを誘ってみたらと提案しました。
そしてその後戸高くんからの誘いを快諾してもらい、カナちゃんは、CHAOOと同時進行でマージービートに加入してくれました。 カナちゃんはエレクトーンのエキスパートでしたので、当初は元々のホーンのセクションの部分をキーボードを充てる感じだったように思います。(Kids Over Party Vol.4ではカナちゃん加入後のライブ音源です。)
Kids Over Party Vol.4 Mersey Beat
その後、時間を重ねるに連れ独自のアレンジを効かせ、マージービートになくてはならない存在と成ってゆきました。
Kids Over Party以降はクリスマスのサンホールの年越しライブパーティを経て、翌年にはシングルレコードを作成することになるので、スタジオにてそのための曲作り(Keep on Harpin’, Please OpenYour Eyes)に集中する時間が続きます。その後ようやくレコ―ディングとなるのですが、今度はレコード完成後ベースの山本君が脱退することとなります。
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でもそのお話は、次の機会に。
By鈴木博之
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
マージービート、自主製作シングルレコーディングの巻 1987年2月に、マージービートは自主制作シングルのレコーディングを行いました。 レコーディングメンバーは、ギター・ボーカルが中戸靖仁、ベース・ボーカルが山本賢治 ドラムス・パーカッションが大西秀男、キーボード、ハモンドオルガンが金田アキコ、コーラスにシャーベッツ(森キョウコ、中西ノリコ、藤本ケイコ)その他雑用、運搬、ガヤ、クラップハンド要員として、鈴木と田村(後のマージービート2代目ベース)達がいました。
しっかり鈴木と田村写真に写っています。
レコーディングはいつもお世話になっていたSTUDIO YOUで行いました。 要した日数は、2日~3日(1日徹夜で録音し、もう1日でトラックダウンと言う説と、2日録音で1日トラックダウンという説があり、どちらが正解か今となっては覚えていません。)でした。 レコーディングには、いつもライブで一緒になっていたシャーベッツの面々に、戸高君からコーラスでの参加を依頼し、快諾いただきました。 収録曲は、Please Open your Eyes, A Rebellion to town, Keep on Harpin の3曲でした。
各局を選んだ理由とレコーディングのかは、大西君曰く以下のようになります。
収録曲の選曲理由についてはよく覚えていませんが、 1曲目既存の人気曲Rebellionの新アレンジで掴んで、他はカナちゃん加入後の新曲で新生マージービートをアピールしたかったんだと思います。 Please Open your Eyesはライブで毎回演っていたSomething New To Changeに飽きていた中戸君が、それに代わるエッジの効いたストレートな新曲が欲しくてつくった曲だったと思います。 冷戦下の米ソを皮肉った「USAでは今日もUSSRに向かい鳩の足の爪の数を数え直せなんていってるぜ」って歌詞にシビレました。 Keep on Harpin'はキーボードのカナちゃんのオルガンをフィーチャーした曲として、ちょっぴりサイケっぽいアレンジでつくりました。 この曲で聴けるキーボードのメロディラインの独特なコブシが所謂「カナちゃん節」として、その後の新曲にも活かされていきます。 KEEP on Harpin’のエピソード(鳴り物の件) シングルは33回転で長尺の録音が可能だったので、途中のブレイク部分は好きな長さで演らせて貰えました。
元々の演奏をあえてキックとスネアとハイハットだけのベーシックなリズムにしておいて、別録りでタムを重ねて厚みを出しています。
その時スタジオにあったボンゴを触った事もないのにノリで叩いたトラックも採用されています。
変則的なハンドクラップはマージー全員に鈴木君、加入前の田村君も参加していたと思います。ジャケット内側の写真で、僕がカウント数えて合図してるところが写っています。
その他レコーディングのエピソードとしては、徹夜でスタジオに籠ってたのですが、四六時中コンビニで買ったパンとかスナック菓子を食べていて、プロが良く云う「夜中のスタジオはとりあえず腹が減る」っていうレコーディングあるあるを実感しました。
シャーベッツのケイコちゃんキョーコちゃんノリちゃんと談笑するカナちゃんを眺めて「あっ、これってCIAAOとシャーベッツの初共演や!」って、どっちもファンだったので僕だけ勝手に盛り上がっていました。 (By大西君)
ジャケット写真は、当時懇意にしていた大阪写真専門学校の中川先生の計らいで、中之島の朝日放送のスタジオで撮影していただきました。 採用された集合写真以外にも、様々なポーズでたくさん撮影したようです。 撮影の際は、先生が録音したばかりの曲を大音量で掛けて「さあリラックスして~」などと雰囲気づくりをして頂いたものの、全員初めての本格的なスタジオ撮影でガチガチに緊張しっぱなし。 出来上がった写真も全部同じ表情だったとのことでした。 裏面及び中開は、私鈴木と、永野さん(カーニバルプラザの企画部マネージャー)でした。 またこれは偶然なんですが、マージービート関係者には、カーニバルプラザ企画部の歴代バイト職員が5名(中戸君、山本君、田村君、鈴木、桑ちゃん)もいました。住んでいるところも吹田とか江坂ではないんですが、(中戸は八尾、田村は少路、鈴木は鴻池)何故か縁がありましたね。
これは裏ジャケ写の別テイク。(撮影鈴木)
デザインは、戸高君がデザイナーなので、彼のデザインによるものです。 Con-Trustというレーベル名も彼の命名です。「互いの信用」という意味だったそうです。 (AA & Aに注目!)
レコーディングに関して、山本くん、大西くんは以下のように述べておられます。
製作タイミングとしては、良かったが辞めるメンバー含めて製作したのはどうだったかなって今は思います。 結成前から、ずっと一緒にやってきたので、中戸がそのサウンドを残そうとしたのか、次のベースでつくるには間に合わなかったかのか? 私個人としては、形に残るものができてありがたかったです。(by山本君)
なんといっても当時は自分達の演奏がレコード、それもドーナツ盤になるってだけで単純に嬉しかった。これをまだマージービートを知らない沢山の人に聴いて欲しいと思いました。(By大西君)
さて、こうしてシングルレコードは出来上がりました。500枚程度をプレスして、関西の自主制作を扱うレコード店に委託で販売をお願いしました。当時は自主制作ブームでもあり、沢山のバンドがレコードを出していましたので、委託は簡単でした。 おそらく、500枚が最低発注ロット数だったためと思われます。
2021年現在に現存するマージービートのシングルレコードはこの分となります。
当時は・・・友人や関係者以外には思ったようには売れなかったですね。 レコード店に定期的に集金に伺っていましたが、思ったような結果は出ませんでした。
それが、時を経た今こんな高価な値段がついて、評価されているのを見ると不思議な気分になりますね。
その後さらに、東京のRADIATE RECORDからの依頼で、COMPILATION LP ”DANCE”への参加を打診され、収録する音源を2曲送ることとなります。
なぜかEPの音源を出さずに(なんでなのか?謎ですね?)Egg Plantでレコーディングライブを行います。
録音は、本町のStudio EVEに依頼して、16チャンネルくらいの巨大なミキシングテーブルを持参して、隣の楽屋にセットしてレコーデイングを行いました。 このStudioはお母さんと息子さんの2人で経営していて、もじゃもじゃ頭の息子さんの事を自分たちは、(富田)イサオちゃんと呼んでいました。たまにお母さんが、「ご飯出来たよ」と2階から声をかけるのが滑稽でよく覚えています。 そんな不思議なスタジオですが、トラックダウンの際には隣のスタジオでコブラがハリウッド映画用の曲のリハーサルをしていて、真剣に悩んだり、スタジオに皆でネそっべっていたことを覚えています。それなりにちゃんとしたスタジオだったんでしょうね。
レコーディングライブということで、Saturday’s kidsに集合をかけて皆で盛り上げて声を出して応援しようと言うことになり、それを拾うためにオーディエンスマイクまで立ててレコーディングライブを行いました。 しかしこの時イサオちゃんが、「このクソが、オーディエンスマイクなんて10年早いわ」と調整卓のツマミをいじりながらブツブツぼやいてるのを鈴木が聞いてしまい、後でメンバーに伝え、皆顔を見合わせてゾッとしたのを覚えています。
肝心のライブですが、オーディエンスは頑張ったのですが、歌詞の間違い、演奏のトチリなどがあり、候補の曲ではなくミスの少ない曲になりました。日頃は温厚な戸高くんが「又間違ってるがな!」と眉間にシワを寄せていたようです。
そして、このライブが、ベースの山本くんの最後のマージービートのステージとなります。 山本くんがこのためにバンドを辞めることは既定路線と言うか以前から決まっていたことでした。 とはいえ、次のベース選びには時間があったものの難航しました。プレイヤーマガジンにメンバー募集の広告を出したり、張り紙(こんなの)をアメ村界隈に張ったりしたのですが、なかなか決まりませんでした。
さて、マージービートのベースはどうなるのか? 先が知りたいところですが、この続きは次回に。 By:大西秀男 and 鈴木博之
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
マージービートストーリVol.5 山本くん脱退、田村くん加入 シングルレコーディングの後、2月のBearsのライブ、3月7日のDANCEのためのレコーディングライブを最後に山本くんはマージービートを脱退します。 オーストラリアへワーキングホリデーに行くためでした。 山本くんの脱退が決まり、今度は次のベースを探すことになります。
ビラを作成しレコード店に張ったり(こんなの)プレイヤーマガジンにメンバー募集の広告を出したりしましたが、なかなかベースプレーヤーの応募はありませんでした。
1987年某日、いつものように、どこかの茶店か飲み屋で戸高君と鈴木が話していました。
「戸高くん、山本くんの次のベースはどう?見つかった?広告に応募あった?」 「いやー、なかなかなぁ。」 「そうかぁ・・・そういえば、田村は?どう?アレキサンダーでベースやし、なかなかのテクニシャンやし。」
「うーん・・・田村かぁ・・・・・・・。ほんなら電話してみるかぁ。」
こんな会話があったように覚えていますが、なにせ34年前の話ですので記憶違いがあったらお許しください。
その後、田村君に戸高君から連絡が入ります。
田村君は、戸高君と電話で話したことはそれまで無かったので、何事かと驚いたようです。
田村「あ、戸高さん・・今日はなんの事で?どうしたんですか?」 (年上なんで敬語です。) 戸高「いやー、元気?あのなぁ・・・なんちゅうか・・そういえば田村バイトしてる?」 田村「うん、まぁ・・今のところは・・・。なんかええバイトあるんですか?」 戸高「うん・・・その・・・いやー・・・。ところで・・・バンドはしてたっけ?」 田村「・・・えーと、アレキサンダー・・・してますよ。」 戸高「あー・・・そうなんや。・・・最近ライブとかは?」
田村「いやー・・・。今は特に決まってないですよ。」
戸高「ふーん・・・・・・そう。・・・・・他はなにかしてる?」
・・・・・と、要点を得ない、煮え切らない話が30分以上続いたそうです。 戸高「ところで・・・マージービートは好き?」と唐突に戸高君が質問します。 田村「ええ、好きですよ。」 戸高「実は・・・山本くんがオーストラリアへ行くんや。」 田村「旅行で?」 戸高「いやー、住むらしいねん。」 田村「・・・はぁ(なんで俺にそんな話するんやろ?」
戸高「それでやなぁ、・・・田村・・・マージービートのベースは、うーん・・・ どうやろう?・・・やる気ある?」 と、40分ほどかかってようやく本題にたどり着いたのでした。
元々ファンでも会った田村くんは、オファーを快諾しました。 こうしてマージービートの2代目ベースが決定したのでした。 山本くんは脱退した後でしたので、引き継ぎもなく、田村君は録音テープを聞いてトレースする日が続きました。 ところが、なぜかその時点で今まで全く応募もなかったのに、突然プレイヤーマガジンを通じて応募してきた人が現れました。
ハナシロヤスヒデ君(?)という方が、応募してこられたのです。 おまけに彼はある日練習スタジオに現れたのです。
その時は既に田村くんに決まっていたわけで、すでにスタジオで練習中でした。 電話で断ることが出来なかったのか、 それとも応募広告に練習を見に来てくれと書いてあったのか、 はたまた、戸高君と田村君の会話が中戸君もしくは大西くんに伝わっていなかったのか? かわいそうに彼はマージービートの練習スタジオまで来られました。 なぜ彼がわざわざスタジオまで来たのかは今となっては記憶があやふやですが、彼の熱意に、電話だけで断ることも出来ず、一応決まったんやけど、もしよければスタジオまで見に来る?って話になったのか、もしくは彼がそれでも練習見てみたいと言ったかのいずれかだったと思います。 そして、来てくれたハナシロ君は、メンバーに挨拶し、皆と少し話し、結局スタジオの外で中戸くんが彼に直接断わったように思います。 リーダーは大変ですねー。
さて、こうして2代目ベースが加入。4月12日にエッグプラントの初ライブも無難にこなし、この4人でのマージービートが本格的に始動します。
1週間後の4月19日には詳細不明のamホールでのライブ (どうも場違いな感じが否めなかった。) 5月17日にはMODS MAYDAY大阪、
FM大阪It’s タマゴ、収録、出演、 6月19日、20日には新宿JAM2DAYS、
7月にはライブを3回と、フォーラスコンテスト予選、 8月にはフォーラス本戦と京都WOOPIES、
という具合に目まぐるしく週2の練習、ライブの日々となります。 8月にフォーラスサウンドコンテストで初代チャンピオンに輝き、12インチレコード製作の副賞を勝ち取りました。 (詳細はVol.8にて)
そして9月には梅田歩行者天国ゲリラライブ、 (詳細は次のVol.6にて)
フォーラスサウンドコンテスト第2回チャンピオン大会での凱旋ライブ。
そしていよいよ12インチのレコーディングと、階段をどんどん上に、そして目標への到達が現実に感じられるところまで近づいていると、少なくとも自分はそう思っていました。 (詳しくはVol.9にて)
でも・・・これだけ頑張って勝ち取った栄光が、後のバンド崩壊につながるとは・・・。
その時誰が予想できたでしょう? この次のお話はもう少々お待ち下さい。
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suzukigarden
2021年5月27日
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2021年5月27日
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
Mersey Beat Forus Sound Contest
上記副題もしくは写真をクリックしてください。
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
Silent Reaction レコーディングの巻
上記副題もしくは写真をクリックしてください。
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2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
The beginning of the collapse and what was the trigger of it.
崩壊の始まりとそのきっかけ。
上記副題もしくは写真をクリックしてください。
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suzukigarden
2021年5月27日
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suzukigarden
2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
Latter Period and end of Mersey Beat その後のマージービート
上記副題もしくは写真をクリックしてください。
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suzukigarden
2021年5月27日
In The Story of Mersey Beat
現存するマージービートの音源と動画を時系列でUPしました。
他オーディエンス録音、写真等是非寄贈お願いいたします。
Mersey Beat Live at Cats Namba Osaka on 14 December 1984 Mersey beat Live at Bahama Namba Osaka, 5th February 1985 Mersey beat Live at Egg Plant Osaka 25th July 1985 Mersey Beat Live at Plus One Osaka, December 1985, Saturday's Kids X'mas Modern Party Mersey Beat Live at am Hall Osaka, 10th February 1986 , Kids Over Party Vol.1 Mersey Beat Live at Candy Hall Osaka, 20th February 1986, 花石眞人脱退記念ライブ Mersey Beat Live at Candy Hall Osaka , 11 May 1986 , Kids Over Party Vol.2 Mersey Beat Live at Shibuya Live Inn Tokyo , 18 May 1986 Mersey Beat Studio You May 1986 Meysey Beat Live at Candy Hall / Kid's over party Vol.3 August 1986 Mersey Beat Live at Candy Hall 7th Decdember, Kids Over Party Vol.4 Mersey Beat 1st EP Rebellion to Town March 1987 Mersey Beat 1st EP Please Open your Eyes Mersey Beat 1st EP Keep on Harpin' Mersey Beat Recording Live Keep on Harpin' / Its a Friday Night Mersey beat Live at Muse Hall B級ワールド 1 Mersey beat Live at Muse Hall B級ワールド 2 Mersey beat Live at Burbon House All Seasons, 夜空の向こう側に 12inch Single Silent Reaction by Mersey Beat Spring Rain by Mersey Beat (1988) ことばなんていらない by Mersey Beat (1988)
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